以下は
神戸と華僑 この150年の歩み
編 者 神戸華僑華人研究会
発行者 福岡 宏一
編 集 のじぎく文庫
発行所 神戸新聞総合出版センター
〒650-0044 神戸市中央区東川崎町1-5-7
神戸情報文化ビル9F
に掲載されたものを発行者と著者の陳来幸女史(神戸商科大学商経学部教授)のご厚意により当ホームページに掲載を許可されたものです。
関係各位に深く感謝の意を表します。
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陳徳仁(ちんとくじん)
――日中文化交流の橋渡し
陳 来 幸
おいたち――終戦まで
陳徳仁は一九一七年三月六日、神戸の須磨で中国人の父陳達文(ちんたつぶん)と日本人の母
長島まき(又の名陳巻、神奈川県出身)との間の一男三女の長男として生まれた。当初宝塚で広
東料理店を経営した父は、一九二四年に東京へ移り、浅草公園の近くで広東料理店‘牡丹亭’を
開設したが、関東大震災後の不景気の影響によりわずか一年で神戸に戻る。それに伴い、徳仁少
年も浅草尋常小学校を一年で中退して神戸に移り、中国語による民族教育を受け、神阪中華公学
(華強学校と中華学校が一九二八年に合併して発足。神戸中華同文学校の前身)を卒業した。東
京での尋常小学校のころ、多くの華僑が経験したように、陳少年もまた、「チャンコロ」、「支那人」
と侮蔑的に呼ばれては日本人生徒とけんかをしたが、決して涙を流すことはなかったという。神
戸に戻っての学校生活は少年にとり、はるかに居心地のよいものであったろう。
徳仁一四歳のころ、父達文は南京町に広東料理店“博愛酒家”を開設し、この店は一九四〇年
代まで大いに繁盛したという。中華料理店の名前としては馴染みのない「博愛」という言葉を敢
えて取り入れた父陳達文もまた、二代にわたる信奉者とでもいうべきか。徳仁が後半生を傾けた
孫中山記念館への情熱にも示されているように、親子二代にわたって孫文(そんぶん)を心から
尊敬した。神阪中華公学を一五歳で卒業した徳仁少年はさらに三年間にわたり、神戸にある漢学
塾の碧梧学校で中国語の学習を続けた。
陳徳仁の原籍は父の生まれ故郷である広東省南海県大同堡。日中両国の関係が、全面戦争に突
入する直前の、比較的穏やかであった一九三五年のこと。ちょうど碧梧学校卒業のころであろう。
一八歳になった陳徳仁は父親に伴われて故郷の広東をはじめて訪れ、おばの家で三日間を過ごし
た。青年陳徳仁はそこで何を思ったであろうか。三日間にわたるこの大同での見聞と体験は、何
ものにも代え難いふるさとの原風景となって陳青年の脳裏に焼きつき、その後のアイデンティテ
ィ形成の重要な礎となったにちがいない。
その後、家業を手伝いながら、神戸のパルモア英学院(Palmore Institute現在はパルモア学院)
で英語を学んだ。パルモア英学院は、一八八六年に来日した米国南メソジスト派宣教師J ・W
・
バス一家が、神戸・元町の外国人居留地に創立した読書館を前身とする。長年勤労青年に対する
英語教育に便宜を図った夜間専門学校として地元に親しまれ、現在の関西学院は、この昼間男子
部が一八九九年に独立、同じく啓明女学院はタイプ科女子部が一九二三年に独立したもので、い
ずれもパルモア学院とは母体を一にする。当時数多くの華僑、とくに広東人がここで英語を学ん
だ。
二三歳でパルモア英学院を卒業した陳徳仁は、一九四一年四月に大阪外国語学校(大阪外国語
大学の前身、一九四四年四月大阪外事専門学校と一時期改称)中国語学科(当時支那語学科と
称していた)に進み、四三年四月に繰り上げ卒業し、広東語講師として母校で教鞭をとった。在
学一年時に楠山正雄氏による「中国古代神話」の訳文を『支那及支那語』(大阪外語支那研究会)
に連載するなど、大阪外国語学校中国語学科にあっては群を抜いた優秀な学生であった。中国語
作文能力は中国語教員として当然備えておくべき資質である、というのが彼の口癖であったとい
う。当時を振り返る著名な中国語学者故伊地智善継(いじちよしつぐ)(元大阪外大学長)は、ど
うあっても陳徳仁の中国語力には及ばなかった若き日の苦い思い出を述べておられる。大変温厚
な性格であった陳徳仁が、「広東語に関する新書」と題し、日本における広東語研究の実情につい
て、珍しく辛辣な批評を寄せたことがある。体をなさない日本の広東語教育に忸怩たる思いであ
ったのであろう。『支那及支那語』四三年六月号から「広東語模範読本(上)(下)」を発表すると
ともに、陳徳仁は大阪外国語学校で広東語講座を担当し、しばらくの間母校の後輩を教えた。
同じ年に大阪外国語学校に入学し、インド語を学んでいた陳舜臣(ちんしゅんしん)も同じく
神戸出身の台湾人である。伊地智善継は陳徳仁に「大陳」、陳舜臣に「小陳」という綽名を付けた
と回想する。親友の妹である楊恵芳と四二年に結婚していた陳徳仁を、皆が「奥さんもちの陳さ
ん」と呼んで区別していた、とは陳舜臣の回想による。一九四三年頃、南京汪精衛傀儡政権の宣
伝部が高給を条件に官僚ポストを提供するという誘いがあったが、陳徳仁これを固辞したといわ
れる。
陳徳仁は、終戦までの一時期、大阪毎日新聞の華文記者となり、編集や翻訳に従事したことが
ある。この時期手がけた翻訳に舟橋聖一「妻への手紙」や宮本武蔵の「巌流島の決闘」などがあ
る。比較的裕福な生い立ちのもと、日本語はもとより、英語と中国語という三ヶ国語に秀でた才
能を発揮した陳徳仁は、インテリエリートの華僑青年としての地歩を着実に固めていった。
戦争末期、華僑も多くの市民と同様、市内中心部を離れ、各地に疎開していた。陳徳仁一家は
摩耶山の麓に疎開し、一軒おいた隣家が同じ華僑の林天民(りんてんみん)(順天貿易代表、神戸
華僑歴史博物館第二代館長)一家であった。林天民とはその後五〇年にわたる友人となる。
一九四五年八月の終戦間際、食糧難を解決し、自給生活への第一歩とするために、華僑の若者
たちからなる神戸華僑鈴蘭台開墾隊が組織された。この開墾隊は、神戸有馬電気鉄道会社との間
で、華僑青年が労働力を提供して荒地を開墾することを条件に、会社所有の山野二四〇〇平方メ
ートルと宿舎一棟を借用するという契約を結んだ。八月一五日が開墾第一日目であった。終戦が
宣言されたちょうどその日に開墾を目的に集まった華僑青年たちは、即座に開墾隊を解散すると
同時に、神戸中華青年会を組織することに決定し、陳徳仁が初代神戸中華青年会総幹事(会長)
に選出された。
終戦直前の六月、空襲で焼け野原となった神戸では、華僑の公産といえるほとんどすべての建
物が灰燼と化した。華僑の子弟が通う中山手通二丁目(旧神阪中華公学校舎)と三丁目(旧神戸
華僑同文学校)の二箇所の神戸中華同文学校校舎も焼け落ち、多くの子供たちが学習の場を失っ
ていた。そこで中華青年会は同じく結成間もない台湾省民会に相談をもちかけ、部屋を二間借り
て教室とし、教育補修所を開いた。陳徳仁はここで教師の一人として華僑子弟の教育にあたった。
教壇に立つ陳徳仁は、女子学生の憧れであったという。翌一九四六年、神戸市の好意によって市
立大開小学校を借用できることとなり、この補修所は閉所となる。
その後、神戸中華青年会会長陳徳仁は中国側代表として神戸市と交渉のすえ、舞子にあって戦
時中徴用されていた故呉錦堂(ごきんどう)別邸の松海別荘と移情閣の返還交渉を実現した。そ
して、呉家と相談のうえ、ここを神戸中華青年会の会所とし、華僑のための迎賓館とすることと
した。その後中華青年会は華僑社会の長老である廖道明の協力のもと、神戸市内中山手通二丁目
の土地(一〇〇坪余り)に、神戸中華青年会館を落成して第一会所とし、市内からやや距離のあ
った舞子の旧呉家別荘を第二会所とした。中山手通の中華青年会館は幾度かの建てかえと改修を
経て現在の華僑会館(神戸華僑総会事務所所在地)となり、華僑の公産となっている。
神戸華僑社会の戦後復興の時期、神戸中華青年会が手がけた重要な事業の一つに幼稚園の開設
がある。一九五〇年四月、神戸中華青年会は中山手通にある第一会所の体育館の一角に付属幼稚
園を付設し、関明真(かんめいしん)が園長となった。翌五一年二月、関帝廟の和尚湯欽明(と
うきんめい)(釈仁光)も関帝廟に光華幼稚園を付設し、黄潜園(こうせんえん)が園長となった。
いずれの園も手狭で設備が貧弱であったため、翌一九五二年、高砂商行社長李義招(りぎしょう)
(台北師範出身)の発案と陳徳仁の協力のもとで、この二つの園は神戸華僑幼児園に統合され、
董事会が成立した。そして、多くの華僑の寄付を基礎に、一九五三年、山本通三丁目の地に洋館
を購入して設備を拡充し、五四年に準学校法人資格を取得して董事会は理事会へと改組する。一
九六〇年、中山手通六丁目の現在地に園舎を新築して学校法人となり、改築を経て現在に至る。
初代理事長李義招の補佐役として一六年間副理事長を務めた後、陳徳仁は一九六八年から三年間
理事長となる。
広東幇(ぱん)の一員として
神戸の華僑社会は、神戸港が対中国・香港向け輸出入の最重要港であったが故に、中国各地の
華商を惹きつけ、海外にある華僑社会には珍しく、広東・福建などの南方に限らない、極めて多
元的な出身地別構造をもつ。戦前の阪神地区華僑全体の統合組織である中華会館は、神戸の三江、
広東、福建出身者からなる三幇構造でスタートし、二〇世紀初めに大阪の北幇などが加わり、戦
後にはさらに台湾幇が加わった。
陳徳仁は広東幇の一員として神戸で生を受けながら、中華会館を通して各幇の連携体制が教育
面で発揮された一九二〇年代に、北京語で教育を行う神阪中華公学で教育を受けた。有力華商の
子弟の多くが広東語教育を堅持する神戸華僑同文学校に通学したのと比較すれば、進歩的な考え
方の父親の影響が見られるといえるのかもしれない。当時の華僑社会は北伐を遂行する中国国民
党の民族主義に強く影響されていた。民衆運動の高揚が海外にも波及し、一九二五年上海で発生
した五・三〇事件は、対英ボイコットへと発展し、英国船の中国人水夫は神戸港でもストライキ
に参加して下船し、神戸の中華会館はこれら水夫を収容し、生徒たちがストライキ労働者に差し
入れを行うという時代の熱気が存在したのである。
一九一〇年代の初め、神戸華商を代表する人物は三江幇に属する寧波(ニンポー)人呉錦堂で
あり、孫文を筆頭とする新生中華民国の代表団を舞子にある自らの別荘に招いたことはよく知ら
れていることである。一九一四年に還暦を迎えた呉は、社会的な要職から身を引いた。また、同
じく孫文の良き理解者であり、中華民国初期に財政面での新政府への支援を惜しまなかった王敬
祥(おうけいしょう)も一九二二年に若くしてこの世を去った。本国で国民革命の嵐が席捲する
一九二〇年代に入り、神戸華僑社会を率いた次世代リーダーは、広東幇の楊寿彭(ようじゅほう)
であった。楊寿彭はもとイギリス系船舶会社P・O汽船の買弁(コンプラドール)である。福建
幇の一員であり、かつ横浜正金銀行の買弁でもあった王敬祥と同様、職業柄「洋幇」というグル
ープに属する。買弁となるためにはいうまでもなく高度な語学力と二つの異なる社会の双方から
相当な信用を置かれているという条件が必要であった。大柄でよくサングラスをかけた姿で写真
に収まっていた楊寿彭は人望が高かったのであろう。若い時から華僑社会でいくつもの要職に着
いていた。呉錦堂の還暦祝いの行事を実質執行したのも楊であり、中華革命党に引継いで成立し
た国民党駐神戸支部の支部長となる。さらに、国内の党内対立に影響されて発生した、留学生を
中心とする国民党駐東京支部の内紛には党本部の要請に応じ、わざわざ東京まで出向いてその調
停に奔走したことでも知られている。
一九一四年二月、楊寿彭は呉錦堂、王敬祥、鄭祝三らとともに「神戸華僑商業研究会」を創り、
会長となった。神戸華僑商業研究会は「商業を研究し、知識を増進し、友誼を深める」(華僑商
業研究会規則、第二条)を趣旨に掲げた。欧米商人に倣い、新聞や雑誌、図書等を所蔵する蔵書
楼を設けて学識の増進を図るとともに、娯楽部を備え、レジャーを通し、会員の心身の健全な発
展を図った。当時の進歩的神戸華商においては、商業の発展こそ国家にとって重要な意味をもつ、
という共通の認識があった。海外華僑自身の知識の進歩は国家の根本を培い、延いては(反革命
的体制下にある)内地同胞が同じく奮起してこれに追随することで、国家富強化の道へとつなが
って欲しい(楊寿彭序)。このような願いがこの研究会に託された。海外華商として、内(中国)
に対しては経済の力で政治の危機を救い、外(外国)に対しては、祖国の名誉を高め、経済勢力
の均衡に努めたい(呉錦堂序)。このように、高邁な使命感に燃えていたのである。
道草話が長くなった。在外華僑社会がこのような国民党によるナショナリズムに彩られた一九
二〇年代の神戸で陳徳仁は青少年期を過ごし、楊寿彭の息子楊永和とは無二の親友であったとい
う。やがてその妹楊恵芳と恋愛結婚し、二男三女をもうけた。日中全面開戦直後の一九三七年九
月、中国国民党の要職に就き、在外僑民として国民大会日本代表にも選出されていた楊寿彭は、
外諜容疑で特高警察に逮捕された。そして獄中生活がたたり、一九三八年一月に短い命を終えた。
英雄視されてこの世を去った楊寿彭の娘婿として、そして革命発祥の地広東に対する誇りを胸に、
陳徳仁は、祖国の発展にとって華僑はどうあるべきか、について深慮するのである。
一九四八年一〇月一〇日付けで刊行された中国国民党駐神戸直属支部執行委員会宣伝科編印
『国慶特刊』に陳徳仁は「華僑の命運」という文章を寄せた。当時陳徳仁は神戸直属支部第六届
青年運動委員会主任の役職についていた。一九四九年一〇月の中華人民共和国成立のちょうど一
年前のことである。この時陳徳仁は、「政府は華僑の有力者を大使館、総領事館の参与とすべし」、
さらに「華僑自身のことは華僑自身の力で解決を」、という華僑本位のシステム構築を主旨とする
メッセージを、本国政府の僑務委員会に向けて発したのである。
神戸中華同文学校の新校舎建設運動
さて、戦後の神戸中華同文学校の再建と復興に果した陳徳仁の役割は誰しもが認めるところで
あろう。
「建校問題は、母校が焼け落ちて以降、凡そ全ての神戸華僑と、華僑学校に関心を寄せる全
ての内外人士が、必ずや全力で達成しなければならない、と心から感じている一大事業であ
る。建校問題は華僑の団結力を発揮する最大の試金石でもあり、華僑同胞一人一人の「人格」、
「信用」、「名誉」にかかわり、学校再建で示される情熱がいかに末永く華僑史に刻まれてい
くかという問題にもかかわる。それゆえに私は次のように主張する。自分が中国人ではない
と考えている華僑を除き、全員が自分の能力に応じてできる限りの寄付を行い、自らの人格
を示さなければならない。情熱があるというなら、自分の全財産の十分の一でも提供して建
設基金とすることができよう。そうすれば、我々の学校の再建は必ず実現するのだ。
(陳徳仁「“学校建設”“華僑の職業問題”について」神戸中華同文学校校友会『一〇周年紀
念』一九五七年八月)
これは陳徳仁が神戸中華同文学校校友会結成一〇周年紀念誌に向けて書いた文章である。当時
の華僑社会は事実このようなムードに包まれていた。この熱気は単に空襲で焼けた母校の再建、
という単純なものではなかった。
戦争終結ののち、それぞれ自分たちのことで精一杯であった華僑たちがそろそろ公の学校再建
運動に着手し始めた一九五五年初頭、台湾に根拠地を移した中華民国政府僑務委員会は学校の運
営について四つの要求を出した。@「反共抗ソ」の国策を擁護すること、A学校の董事会を即座
に改組すること、B教職員は董事会によって招聘すること、C台湾から教員を派遣すること。
このような「干渉」をよそに、一九五七年五月に土地問題の目処が立ち、募金段階へと学校再
建問題が進展するなか、七月には各卒業回生による代表者会議が開かれ、建校運動をどのように
展開すべきかを討議する場を持った。このような背景のもとで書かれた陳徳仁の上記の文章とは、
「とにかく自分たちの手で自分たちの学校を」、という熱い願いが込められた、時代の産物であっ
た。
翌一九五八年五月、当時日本における唯一の中国を代表する外交機関であった台湾の中華民国
大阪総領事は一部の華僑を招集し、李万之校長と李蔭軒主任の更迭を条件に三〇〇〇万円の建校
資金を提供するとして、学校建設問題に対し「干渉」を加え始めた。この提案に対して、学校董
事会は「寄付には付帯条件をつけるべきではない」、家長(父母)会は「学校教育の中立的性格を
堅持するべき」という点で一致した。さらに、校友(同窓)会はこの二つの見解に基本的に賛同
した上で、「建校問題と改組問題は分離して考えるべきで、後者に関し、校長と主任を更迭する理
由も必要もない」という意見をまとめ、最終的に神戸華僑は、台湾の中華民国政府の要求と提案
を固辞した。
学校再建の運動は瀧川儀作日華実業協会会長等の協力のもと、神戸華僑自らの力でいかなる政
治的干渉をも排して推進されることとなり、一九五九年一〇月三〇日に落成式を迎え、神戸中華
同文学校は学校法人資格を取得し、董事会は理事会に改選された。学校建設の推進運動で先頭を
切って功績のあった陳徳仁は、林同春・鄭義雄両副理事長の補佐のもと、一九五九から一九六九
年の五期にわたり同校理事長を務めた。それ以前の董事長の時代を加え、前後一一年、陳徳仁は
四一歳から五二歳の働き盛りの時期を神戸中華同文学校という華僑社会における公的教育機関の
最高責任者として過ごした。
神戸の華僑社会にとって一九六〇年代というのは大変困難な時代であった。日本と正式な国交
のあった台湾の中華民国政府との関係は建校問題をめぐりギクシャクし、最近に至るまで、その
後の国民党による神戸華僑に対する一般的評価は、党の指導を拒否した大陸寄りの集団というこ
とになっている。一方、建国途上の困難のなか、建校募金のことを耳にした何香凝(廖仲凱夫人、
廖承志の母)の努力で、学校の建設と運営の補助にと、北京から相当額の寄付金が寄せられると
いう美談に近い事実も確かに存在した。しかし、多くの台湾人子弟を預かり、中立を堅持すると
いう大人の対応を選択した神戸中華同文学校の立場はそれほど単純なものではなかった。周知の
ように、大陸本土では異常な「文化大革命」の嵐が吹き荒れた。その熱波は日本の華僑社会に少
なからざる影響を及ぼし、北京支持という態度を鮮明にしない神戸中華同文学校の理事長を批判
する「大字報」が張られるなどした。当事者陳徳仁としては心外な思いひとしおであったろう。
このような環境にあっても、神戸中華同文学校は一九七二年の日中国交正常化に至るまで、五星
紅旗を掲げることはなく、教育内容に関しても香港出版の繁体字教科書を教材として使うなどの
方策が講じられた。そして、政治とは距離を置く多くの中立的な神戸華僑が大量に民族学校から
離れるという最悪の事態は免れ、神戸華僑自身による自分たちの学校という原則は貫かれた。そ
の結果、日本最大の華僑学校としての現在の規模と名声を誇るまでになった。このことは、陳徳
仁理事長をはじめとする学校執行部の最大の功績であったといっても過言ではないであろう。
神戸華僑歴史博物館と孫中山記念館の創設
ここでは、公的な役柄からやや離れた視点から戦後の陳徳仁をふりかえってみよう。一九四七
年から一九五一年の間、陳徳仁は教育あるいは新聞界から脱し、有志とともに神戸華僑労資合作
社を設立して社長を勤め、中美商行を共同経営し、上海太平洋貿易公司の日本総支配人を勤める
など、神戸を拠点に実業家としての転身を図った。中美商行社長となった一九五一年から七〇年
にかけて、陳徳仁は香港鴻昌百貨商行の総代理業務を中心に、広東ネットワークを利用した貿易
業に身を置き、ついでファミリー有限会社(六三年)、株式会社協成泰(七三年)の取締役社長と
なった。さらに、一九五一年日華実業協会に加入して副会長となり、神戸華僑貿易振興会を創設
(一九五八年)するなど、私的な事業領域においても周囲を引っ張るリーダーとしての役割を演
じた。
ただ、「幸せなことに、私は案外人に信用されますので、私も社員を信用して全部任せきり」で
あった、とのちに本人が述懐しているように、傍目でみても、辣腕振るうビジネスマンという印
象からは程遠い。おそらくは、本業人任せで、専ら学校や華僑関係の諸事に奔走する毎日であっ
たろう。
神戸中華同文学校理事長の任を退き、ついで神戸華僑幼稚園理事長としての任期を終えた一九
七一年春、陳徳仁は米国在住の父母や姉妹たちとの再会のため二−三ヶ月のアメリカ旅行をして
いる。この旅は陳徳仁にとって人生の一つのくぎりでもあったろう。その翌年、日中国交回復が
実現する。これ以降、陳徳仁の情熱は、内に向けては神戸中華総商会の再建、外に向けては混乱
から脱皮し、まさに離陸しようとする中国との文化交流に向けられることとなった。
一九七三年一一月、国交回復後初めての祖国再訪が実現する。さらに翌年、友人林天民ととも
に広州交易会に参加し、広州駅前の流花賓館に投宿すること一ヶ月。発展途上の祖国を思いやり、
陳徳仁は省エネを理由にエレベーターを使わなかったというエピソードが残されている。
現在、南京町西門から南に下った海岸通の右手角に緑色のKCCビルが建っている。KCCと
は神戸中華総商会(Kobe Chinese Chamber of Commerce)の略で、このビルが落成したのは一九
七九年。当時の会長陳徳仁の努力に負うところが大きい。神戸中華総商会組織の前身は清朝末期
(一九〇九年五月)に創設された神戸中華商務総会にさかのぼり、当初は神阪中華会館(現在の
神戸中華同文学校校庭)に事務所が置かれた。爾来、神戸華商と本国の商務主管官庁、あるいは
海外各地の華商社会を結び付ける、公的性質を帯びた重要な社会団体として機能してきた。
日中戦争が激化する一九三九年一月、日本の対華僑団体統合政策の一環として、従来の出身地
別華商団体であった広業公所、福建公所、三江公所が日本政府の指導のもと、一旦解散を余儀な
くされたうえで強制的に統合合併され、旧広業公所の海岸通三丁目の現在地に神戸中華総商会が
改めて発足した。一九四五年の空襲で建物は破壊されたが、一九四八年、生田区江戸町九四番の
地に華僑商工業界の世論の結集、華僑経済の改善と国際貿易の振興を謳う、新たな機関として神
戸中華総商会の再建がなり、呉玉臣を会長に選出した。その後、会務停滞の時代がしばらく続き、
もとの広業公所の建物のあと地も長い間空き地のままで一部ガレージとして使っていたが、一九
七一年に陳徳仁が会長(〜一九八八年)となって以降活動が活発化する。陳徳仁は『社団法人神
戸中華総商会会報』を創刊するとともに、会長就任当初一六名であった会員も翌年七〇名に増加
させた。
ちょうど日中国交正常化が実現し、長年の念願であった再度の訪中も叶った直後の一九七四年
九月、陳徳仁は「蒋先生!私たちは先生の偉大な決断を心から望んでいる」と題し、以下のよう
なメッセージを発した。
「中国共産党が中国を解放してわずか二五年の月日が経ったにすぎないが、中華人民共和国
の基礎は固められた。現在は中国における空前絶後の大維新期といえよう。われわれ留日華
僑は、蒋先生が名誉を重んじ、一分一秒でも早く、台湾全省の人民に祖国統一という偉業に
参加するよう呼びかけ、中国八億人民の念願を早期に実現することを望む。この一大義挙は、
やがて国史に永遠に刻まれるであろう。国民はもちろん大喜びするし、全世界の平和を愛す
る人々も、蒋先生はやはり愛国の英雄であったと、再確認するであろう。」(『社団法人神戸
中華総商会報』第二六号)。
パンフレットのような性質のこの会報が、果たして蒋介石(しょうかいせき)の目に届いたか
どうかは別として、このような発言がまったく憚られなくなったという、神戸華僑中枢部におけ
る政治的アイデンティティにおける変化の現れとして、このメッセージを位置付けることができ
よう。とはいえ、かつて多くの華僑がそうであったように、国民党員であった陳徳仁がそれとの
決別姿勢を公に表したこの文は、自身にとってはやはり相当な覚悟を持って書かれたものであっ
たと想像される。
一九七九年、一〇階建てのKCC(社団法人神戸中華総商会)ビルが落成し、二階に神戸華僑
歴史博物館を開設し、陳徳仁が初代館長となる。一〇月二〇日に開館した神戸華僑歴史博物館が
オープン記念として実施したのは、神戸市の歴代市長と兵庫県の歴代知事、貢献のあった華僑と
地元財界の名士たちの顔写真を中心とする特別展である。一九八一−一九八二年には「辛亥革命
と華僑」や「孫文と辛亥革命七十周年展」などを開催するなど、陳徳仁が二〇年来個人的にこつ
こつ集めた孫文と華僑に関する貴重な資料を一堂に展示した。
神戸華僑を介した古くからのよしみもあろう。日中両国の交流のなかで、神戸と兵庫県は常に
他の自治体の一歩先を行っている。一九七三年六月二四日、全国の先鞭を切って神戸市は天津市
と友好都市締結を行い、さらに兵庫県は広東省との友好提携を進めた。一九八一年一二月、兵庫
県が広東省との友好締結式典参加のため、大型訪問団を組織した際、陳徳仁はこれに随行してい
る。この時、舞子の移情閣を孫中山記念館として再建することについて話をもちかけ、それに応
えた坂井時忠兵庫県知事は、一億三五〇〇万をかけてこれを修復することに同意した。
翌一九八二年六月、兵庫県広東同郷会が成立して顧問となり、七月には神戸中華総商会ビル一
〇階の会議室で、山口一郎を始め、関西一円の中国近代史研究者を構成員とする孫文研究会が発
足し、理事となる。その後、華僑の手から正式に兵庫県に渡り、修復を経た呉錦堂別邸の移情閣
は、一九八四年一一月一二日、坂井兵庫県知事、文遅駐大阪総領事、孫文令孫孫穂芳女史による
テープカットにより、孫中山記念館として正式に開館した。孫文研究者であり、長年の親友でも
あった神戸大学名誉教授山口一郎が館長、陳徳仁は副館長となった。
日中間の架け橋の役割を果たしてきた神戸華僑の象徴するかのように、この孫中山記念館は二
〇〇四年四月に対岸の淡路島との間に明石大橋がかかるその大橋の袂に復元移築され、風光明媚
な舞子公園のなかでもひときわ異彩を放つ崇高な存在感を世に示している。近くは朱鎔基首相も
そうであったが、中国の要人が日本を訪れるたび、過密なスケジュールをぬってでも足を伸ばす。
孫中山記念館への表敬訪問は、孫中山が果たす海峡両岸の架け橋、華僑が果たす日中両国民の心
の架け橋としての役割を、熟知してのことであろう。荒唐無稽だったはずの山口一郎と陳徳仁両
人の夢は、大きくここに花開いた。
神戸華僑歴史博物館館長および孫中山記念館副館長としての功績によってであろう。一九八五
年には中国浙江省慈渓市呉錦堂師範学校に請われ、名誉校長となる。さらにこの年、安井三吉と
の共著『孫文と神戸』(神戸新聞出版センタ)が村尾育英会学術賞を受賞する。そして坂井時忠兵
庫県知事率いる県商工業界代表団に同行して広州市を訪問し、中山大学、曁南大学、福建師範大
学、華僑大学を訪れ、華僑研究についての学術交流を行い、呉錦堂師範学校では日本の教育状況
について、講演を行った。
一九八六年、孫文令孫・呉錦堂令孫はじめ孫文および華僑社会の良き理解者であった滝川弁三・
儀作や、宮崎滔天ゆかりの人々と中井和夫元神戸市長の他、映画「非常大総統」の監督兼(孫文
役の)主人公であった孫道臨を迎え、孫文生誕一二〇周年記念行事が神戸で盛大にとり行われた。
この時配布されたのが陳徳仁著『辛亥革命と神戸』である。ついで、一九八九年には安井三吉神
戸大学教授とともに『孫文・講演「大アジア主義」資料集』を法律文化社から出版する。同じ時
期、『学校法人神戸中華同文学校八十周年記念刊』や『社団法人神戸日華実業協会七十年史(一
九一七〜一九八七年)』の編集においても中心となって資料整理の仕事を進め、神戸華僑史研究
にとっての貴重な業績を残した。そして、その過程で収集された貴重な資料は、現在神戸華僑歴
史博物館に集められ、整理が進んでいる。このように、史料類の編纂のみならず、ふるさと神戸
を舞台とした陳徳仁の文化および学術交流における貢献は特筆に値する。この間、神戸ロータリ
ークラブ副会長、孫中山基金会(広州)顧問、厦門大学客座教授および福建師範大学客座教授兼
顧問、曁南大学董事会董事、華僑博物院拡建基金理事会理事などの役職についた。
一九八四年、国際交流における功績により、日本国天皇から中華人民共和国人陳徳仁に勳五等
瑞宝章が授けられた。そして、一九九八年四月二八日、陳徳仁は愛してやまなかった神戸の地で
八一才の命を終えた。
参考文献
中国国民党駐神戸直属支部執行委員会宣伝科編印『国慶特刊』一九四八年一〇月一〇日
神戸中華同文学校校友会『一〇週年記念』一九五七年
「神戸華僑歴史博物館館長・神戸中華総商会会長陳徳仁さんに聞く『華僑歴史博物館の創設と
孫文が神戸に残した逸話』」『センター』No.三二九、六月号、一九八三年
陳徳仁編『学校法人神戸中華同文学校八十周年紀念刊』神戸中華同文学校理事会、一九八四年
『孫中山先生生誕一二〇周年記念行事の記録』孫中山記念館、一九八六年
『社団法人神戸日華実業協会七十年史(一九一七〜一九八七年)』一九八七年
学校法人神戸華僑幼稚園『創立四十周年紀念刊』一九九〇年
華僑博物院『陳徳仁先生紀念集』厦門大学出版社、二〇〇〇年
「徳恵会(陳徳仁の五人の子供たちが両親の遺徳を偲びお互いの親睦と子々孫々の為に一九九
三年に結成された会)ホームページ」http://www.kayazono.com/tokkeikai/