
筆者紹介
筆者(義江 修博士)は楊恵芳の兄 楊 永和の長男
東北大学医学部卒
現 近畿大学医学部細菌学教室 教授
本文は氏が東北大学医学部機関誌に投稿したものをご厚意で掲載させていただきました。
西安にて、あるいは華陰の末裔
西安には郊外の感陽の空港から入る。ここは古代秦の都があったところである。そして昔は長安と呼ばれた西安は周、漢、隋、唐など歴代の王朝が都を置いたところである。なぜ古代中国人はこのような奥地に都を置いたのであろうか。それは、古代中国人にとっては河幅が比較的狭く氾濫の恐れも少ない黄河中流域こそ最も住みやすい土地だったからである。穀物も麦を育てた。また当時はこの付近にも豊かな森林があったであろう。そして黄河の下流域や長江流域は本来の中国人の居住域ではなかった。稲作はずっと後代のことである。その意味で日本列島に稲作を伝えた弥生人というのは本来の中国人ではないと断言できる。たぶん東夷と呼ばれ、長江の下流域などに住んでいた人々の一部であろう(最近、長江流域には良渚文明と呼ばれる稲作を行う古代文明が存在したことが分かってきた)。
西安は砂埃の多い町である。今は黄砂の季節ではないが、それでも町全体が砂埃にくすんでいる。中国人はよく唾や痰を吐くと言われるが、微細な黄砂を含む空気を呼吸すればのどがいらいらしてくるのは生理的に必然であろう。このような埃っぽいところでは華清宮の赤い原色の柱がかえってしっくりと落ち着いて見える。大雁塔から西を望めばそこはすでに砂漠が始まっている。郊外の感陽では始皇帝の兵馬俑を見た。また途中には漢代の王侯貴族の陵墓が望見された。道端には疎林に囲まれた黒瓦に土作りの農家が黄土の景色になじんで点在している。また西安は明代に作られた重厚な城壁で囲まれている。城壁の門をくぐるたびに都市全体を外敵から防御しなければならなかった中国の歴史の過酷さが実感される。
私ははじめて遠い父祖の地を訪れた。わが楊氏の始祖は西周の11代宣王の子尚父である。周王家は姫姓であるが、尚父は楊国候に封じられたため楊氏を称した。楊国という小国が古代のどこにあったのかいまだつまびらかにしないが、いずれこの西安からそう遠くないところと想像される。
周は殷を倒して王朝を立てた。殷の前にはさらに夏という王朝があった。殷は高度な文化をもった奴隷制国家であった。周は西方に起こり、しだいに東方に移動した。周の始祖后稷は農業(麦)を中国人に教えた(伝えた)と言われる。このことからも周の西方起源がうかがわれる。そして文王の時に周辺のさまざまな部族の盟主となり、その子の武王はついに殷に反旗をひるがえした。これは周の実力が高まるとともにいずれ両者はぶつからざるを得なかったからであろう。奴隷が主体の殷の軍隊はほとんど戦わずして降伏したと言われる。武王は一族や功臣を各地の諸侯に封じて国家を立てさせた。さらに滅びた殷の紂王の子や夏の末裔にも国を与えた(古代中国人は子孫の祭りが絶えた死者は祟ると考えた)。これを周の封建制と言う。周の初期、もろもろの制度を確立するのに大いに力あったのが武王の弟で魯の国祖周公旦である。孔子は殷人の末裔であるが、周公旦の夢を最近みなくなったと晩年嘆くほどに彼を尊崇した。周はまさにその後の中国文化の源流である。
夏王朝は約400年続いたと言われる。殷王朝は約500年。それに対して、周王朝は西周と東周の前後合わせて800年に及ぶ。ただ後半は春秋戦国時代となり、ほとんど名目的な存在にしか過ぎなかった。それでもほとんどの諸侯にとって周王家は本家であるので、それなりに尊崇されていたと思われる。しかし、中原の諸国がつぎつぎと強国に吸収され、さらに秦や楚といった異姓の勢力が台頭するに及んで、その威光はまったく通用しなくなっていった。そして秦の統一によって周は名実ともに滅び去った。
わが家の族譜は後漢の儒者楊震を開祖としている(族譜の実物は現在台湾にあるということであるが詳しいことは分からない)。弘農県華陰のひとである。この地はやはり西安の近くにある。陰というのは何かの北を意味するのではないかと地図をよく見ると確かに華陽という地名が近くにある。華山という山の北側と南側の地を指すのである。そして古代中国ではこの華山は死者の魂の集まるところと見なされ、そのため東の泰山とともに古代中国人にとって一種の聖地であった。まさに古代中国人の心のふるさとであり、そこが楊氏の本貫でもある。ちなみに楊氏には大きく三種類があるそうである。第一は周王朝のはじめ、やはり王族を始祖とする楊氏で姫姓である。第二は上に述べた宣王の子尚父を始祖とする楊氏でやはり姫姓である。そして第三に後代の異民族出身者が中国人名として採用した例である。さらに隋代に功績により賜姓された楊氏も存在する。
楊震は漢の高祖劉邦に従って手柄を立て赤泉候に取り立てられた楊喜の末である。楊震から四代にわたって人臣最高位の三公(司徒、司農、太尉)に登りつめ、以降この一族は東京(洛陽のこと)楊氏と称して大変栄えた。ただしこの時代は清流官僚と宦官との間の政争が打ち続き(党固の乱など)、そのため後漢は国力が衰微してやがて三国史の時代へと移行する。後漢の滅亡から隋を経て唐の建国まで、中国は北方民族の勃興により約300年に及ぶ南北対立の状態に陥る。そして、この時代にいわゆる本来の漢民族は滅びてしまい、それ以降の中国人は実は新種の中国人であるとさえ言うひともいる。ともあれ長江より北はしばしば北方民族の立てた王朝に支配されたため、弘農県の楊氏もふるさとを離れて長江以南に移住せざるを得なかったのかもしれない。あるいは北方王朝の支配体制の中に組み込まれて命脈を保ったのかもしれない。ともあれ弘農県楊氏はその後も唐代まで存続し、唐代での一族出身の進士は十名にのぼる。また隋王朝の楊氏(文王、煬帝)も唐の玄宗皇帝の寵姫楊貴妃も弘農県楊氏の流れである。
最大の悲劇は唐末黄巣の乱に起こった。この時に中国古来の名門・貴族はことごとく滅びたと言われる。そして人々は逃れて南方へ南方へと移動し、やがて福建省、広東省、広西省などに定住した。言い伝えによるとたまたまひとつの村を通って逃げた人々だけが黄巣の気まぐれなお目こぼしで助かったということである。それは村の入り口に葛の枝をつけた村は襲わないという約束で、そのため中国の南部に広く分布する客家のひとびとは今でも端午の節句には本来の菖蒲ではなく葛をかざる。このような風習がかくも広い地域で今でも自然に共有されているということは運良く生き延びた人々の数がいかに少なかったかということを暗示するように思われる。ともあれ、南方に移住したと言ってもそこにはすでに原住民が住んでおり、新しい移住者は山奥のわずかな土地を見つけて定住しなければならなかった。
これらの人々はよそ者という意味で客家(ハッカ)と呼ばれる。現代流に言えば戦争でふるさとや国家を失った戦争難民である。商才にも富んでいることから客家はまさに中国のユダヤ人とも呼ばれる。当然よそ者と原住民との間では水や土地をめぐっての争いが絶えなかった。また言葉や生活習慣も大きく異なっていた(客家は祖先の麦食を懐かしみ、そのため米でビーフンを作ったり、豆腐で餃子を作ったりする)。そして客家の人々は互いの間でのみ通婚し、また自分たちの言葉と風習を大切に守ってきた。現在、客家の総人口は5千万人と言われる。これらのひとびとが話す言葉は客家語と呼ばれ、唐・宋代の中国語の面影をよく留めていると言われる。また後に福建省から沖縄に移住し、久米村などに住みついた中国人も多くは客家ではなかったかと思われる。沖縄の至る所にみられる亀甲墓や重陽の節句での墓参りの風習も客家のそれが広まったものではなかろうか。
我が家も客家である。本籍というか地籍というか(客家はふるさとを失ってしまった人々であるから、本籍は遠い北方中国にあり、現在住んでいるところではない)、ともあれ出身は広東省五華水塞である。そして五華は有名な客家の集住地方のひとつである。我が家は少なくとも明代以降この地に住んでいたようである。太平天国の乱(洪秀全を中心とする客家の人々の反乱)の後、清朝による迫害を恐れた五代前の祖先が香港に逃れ、その後さらにその未亡人が一人っ子をつれて開港間もない幕末の横浜に移住したのが始まりである。若くして未亡人となった彼女は香港ですでに産婆として成功していたが、彼女に医術を教えた英国人医師
John Smith氏の横浜居留地に産婆が必要という要請でやってきたという。このたぶん才覚に富んだと思われる女性は日本でも成功し、故郷にもそこそこの土地を取得するに至ったが、その後の動乱ですべてを失ったのは言うまでもない。また子も短命であった。しかしその子、すなわちわが祖父は貿易仲買人として成功し、さらに同じく客家出身で清朝打倒と漢民族国家樹立を目指す孫文の革命運動(興中会)にも深く関与した。父はその日本人の妻(第二夫人)の子である。私自身は最近まで我が家の来歴などまったく知らずに生きて来た。ところが最近になり、亡くなった叔母楊恵芳の夫陳徳仁氏(彼もすでに亡くなった)が我が家に関する資料をもっているということを聞き及び、早速その写しを手に入れてようやく上のようなことが分かったのである。この覚書は父の腹違いの兄楊永康(中国人第一夫人の子)が自分らの祖先(源流)を忘れないようにと子孫のために漢文で書き残したものであるが、幸い字面を追うことでだいたいの意味が知れる。そこには始祖のこと、開祖のこと、そしてその後の客家の歴史などがつぶさに綴られている。そして五華に定住して後の系図も書かれている。これらは伯父が五華を訪れて族人に会うなどして調べたらしい。そして伯父は生前にただ一度だけ顔を会わせた私の名前も系図の最後に書き入れてくれていた。また伯父の息子たち(私の見知らぬいとこたち)はいずれもアメリカに渡って生活していることも分かった。祖父の墓が香港にあることも分かった。またわが世代の通字は鴻ではなく恒であることも分かった。伯父の覚書の後半は彼の曽祖母の言わば苦闘の人生の記録にほとんど費やされていた。
中国人は歴史を好むと言われる。そして記録を残す。世界の文明のなかでこれほど文字による記録の豊かな文明はない。そして自己の行動も歴史に記録されることを意識して行われる。歴史はそもそもなぜ必要なのか。それは祖先の事跡と自己に繋がる来歴を知るためである。そこには中国人の宗教観が深く関わっている。実は私はこの覚書に接して深い安らぎの感覚を味わった。それは自分の命がはじめて長い生命の連鎖につながったという感覚であった。そして死というものに対する恐れが不思議と薄れるのを感じた。自分も生命の連鎖のひとつにしか過ぎない。中国人はこれを孝と呼ぶ。そして孝は儒教で最も重要な倫理である(日本人のいわゆる孝行の感覚よりはるかに重い)。孝とは祖先から連綿と自分を経て子孫に繋がる生命の連鎖を表す宗教哲学である。そしてそこに親を敬い祖先を祭る行為の重要性が生まれてくる。さらに祖先を共有する集団である宗族が生まれる。すなわち孝は中国人の社会構造の基本理念であると言える。ただしこれは男系の子孫による連続である。すなわち死者を祭ることは血の繋がった男系の子孫にしかできない。男系の子孫が絶えると死者は飢えてしまう(祭るとは平たく言うと食物を供えることである)。しかし中国人にとって宗族はある意味で国家より重い物である。それは国家や王朝は変わるが、宗族は変わらないからである。またひとりの成功者は多数の族人を食わせてくれる。これでは宗族エゴイズムと腐敗を生むことになるが、中国の厳しい歴史の中では血縁と地縁が何よりも大切であったのも事実であろう。例えば宗族は八代前の祖先の祭りまでいっしょに行うというからそれだけでも大変な規模である。そして次々と分岐する。礼とはいわば宗族社会の様々な行事や決まり事の体系である。仁も宗族の成員間の交わり方から派生したものであろう。また先の名前に関する通字の風習もこの宗族という制度では族人であることやそれぞれの世代を確認するためにまさに便利かつ必須のものである。それにしてもこの宗族という社会機構は、村という共同体の中で平等意識や公共意識を比較的に発達させた日本人には到底分からないものではなかろうか。さらにこのような男系の血縁に基づく宗族の制度には何か遊牧・牧畜民的なにおいがする。血統管理的なところなどまさにそれである。また日本ではそれほどめずらしくない近親婚も中国人には禽獣にも劣る行為と見なされる。その意味で古代中国人(特に周族)の起源はたぶんに遊牧・牧畜の民ではなかったかと思われる。事実祖先の祭祀で捧げられるのは生々しい動物の生け贄であったりする。
私は男子の子孫をもたない。そのため死後は祭られぬ死者となる。また私の祖先も私の子孫によっては祭られないため、祖先に対して大きな不孝をなしたことになる(もちろん兄弟に男子がおれば祖先の祭りの方は何とかなる)。しかし私はそんなことを信じている訳ではない。ただ私もいつか機会を得て150年前のふるさと五華を訪れてみたいと思っている。そして歴代の祖先の位牌にも参ってみたい。五華は広東省北部の内陸部で交通の不便そうなところである。また日本から来た族人とあればかなりのおみやげを期待されるかもしれない。例えば、先の資料を持っていた叔父陳徳仁氏は震災の時、なんと中国に学校を建てに行っていたそうである。教育熱心な客家にはよくふるさとに学校を建てる例があるという。彼が客家かどうかつまびらかにしないが、あり得ることである。しかし私には150年ぶりに遠いふるさとを訪れるにあたり、それにふさわしいおみやげを用意することができるであろうか。さらになげかわしいことに、客家語はもとより中国語もできない私にはそもそもふるさとを訪れても族人と交わることすらおぼつかないのである。
思いきや わが帰りゆく ふるさとの 旅路のはては 華の山かげ